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それでも聞いてほしい話とか、諸々の雑記

しにんにくちはなし

「今日は〇〇さんの誕生日です」

最近のSNSは便利だ。いちいち人の誕生日を覚えずとも、友達に登録していれば通知で知らせてくれる。ならばせっかくだしお祝いのメッセージでも送ろうか、という気持ちにもなる。受け取る側からしたって「お誕生日おめでとう」というたった一言のメッセージでも嬉しいものだ。そもそもこのように他人から祝われることに抵抗のある人ならば、SNSというツールを使ってはいないだろう。

送って損もない、貰って損もない。手軽にお互いが気持ちよくなれる時代になったなと思う。

私は人の誕生日を覚えるのが苦手だ。10年来の友人の誕生日を完璧に覚えられたのもここ数年だし(「肉球の日だね」という共通の友人の一言で覚えられた)、家族の誕生日ですらあやふやでいつも確認しては、一日ズレており訂正される。そんな私にとっては、大変便利でありがたい機能なのだろう。あまり活用していないけれど。

 

先日届いた通知は、だいぶ前に亡くなった知人の誕生日を知らせるものだった。その人のアカウントは亡くなった後もそのまま残されており、私も特別友達から削除する必要を感じていなかったので、いつも通り誕生日が知らされた。

その人の存命中も、特にやり取りをしているわけではなかった。だから私は「今日が誕生日だったのか。にしても死んだ後も誕生日を通知されるなんて、まるでまだ生きているみたいだな」と、なんだか不思議な気持ちになっただけだった。

家族や親しい人であれば、亡くなった後も「今日が誕生日だった」とか「あの人はこれが好きだった」などと、思い出したり懐かしんだりすることはあるだろう。でもそれは、その人がここにいないという前提で話しているものだ。

人工知能が発達してきたとはいえ、現在のSNSの誕生日通知は「亡くなった〇〇さんの誕生日です」とは教えてくれない(設定をすれば可能かもしれないが)。友達に登録している人全員に通知されるものだから、亡くなったことを知らない人が見れば、その人はその日にいつもと変わらず誕生日を過ごしていることになるのだ。はじめに書いたように、何の気なしに「お誕生日おめでとう」とメッセージを送る人もいるかもしれない。その人に届くことはないとは気づかずに。

もしくは、意識的にそういったメッセージを投げかける人もいるかもしれない。ここに送れば、その人に届くかもという祈りを込めて。それを否定するつもりはないが、全体公開で行うのはいかがなものなのだろう。…という私個人の見解については、また別の機会にしておこう。

 

インターネットやSNSの爆発的な普及で、人は簡単に繋がれるようになった。端末を振ったり、自分のIDや名前を伝えるだけで連絡先を交換できるようになった。それはとても凄いことで、実際私の生活も、その仕組みに大いに支えられ助けられている。

と同時に、インターネット上で死ぬことが難しくなったな。とも思った。亡くなった後も知らされる誕生日、消えないアカウント、残った投稿達。消さない限りはずっとそこに残り続けるのだ。

自分がそうなった時を考えると、気味が悪くなってきた。今すぐ全てのアカウントを消して、必要最低限の連絡先のみで生きていきたい気がしてきた。今まさにネット世界に自身の爪痕を残そうとしている私が、何を言うかという話ではあるのだが。

死後は必要最低限のコンテンツのみを残しておきたい。ここも消してしまっていい。私のいないアカウントはただの抜け殻なのだ。そこに私はいない。

私に話しかけたいのなら、私の墓かどこか適当な空に向かって心の声で話しかけてくれればいい。私がうまくあなたの声が拾えて、どうにか返す術を会得していたら、きっと話ができるだろう。そうでなければ、もう私はこの世にいない。きっとあの世でよろしくやっている。だからそっとしておいてほしい。

 

重い病気のある人たちにとって、時に死というものはそう遠くないものであると思う。現に私の病気はついこの間まで20歳まで生きることは難しいと言われていた。今だって、これから20年健康に生きていくための努力と、なるべく早く死ぬための努力(悲しい方向性だが)とを比べたら、おそらく圧倒的に後者の方が少ないコストと労力で行うことができるのだろう。何もしなければ、わりと簡単に死ねるのだ。それを選ぶかは別として。

 

私は、時々自分が死んだ後のことを考える。子供も家庭もないから、私がいなくなって成り立たなくなるものは現時点では存在しない。多少困ったり大変なことはあるかもしれないが、おそらくどれも他の誰かや何かで代替できるものだろう。

そう考えたら、なんだか悲しくなってくる。悲しんでくれる人はいると思うが、私がいなくても問題なく世界は回るのだろう。でもそれは、誰にでも当てはまることだ。大して気に病むことでもない。

 

一つだけ、嫌だと思うことがあるとするなら、死後に私の気持ちを代弁する輩が出てくることだ。「色々頑張ってたけど、最後に〜出来たんだ。きっとよかったと思ってるだろう」とか「あの子も天国で感謝していると思います」とか。

私が今、なんらかの事情で死んでしまったとしたら、未練しかない。何一つ、これで終わってよかったと思えることなんてない。もし適当な理由をつけて、私のこの人生を美談にするものがいるなら、私は絶対に許さないし、あの世から呪ってやろうと思う。私の気も知らないで勝手に私の気持ちを決めつけるな。

たまにいるのだ、その人が亡くなる前何を思っていたのかを想像することもせずに、人の人生を勝手に美しいものとして終わらせようとする人が。抵抗や後悔や悲しみにまみれて終わった可能性だってあるのに。そんな暗い側面を見ようともしない。

私は、それをあまり気持ちよく思わない。だからできるなら死ぬ前に、その瞬間の自分の気持ちを、大切な人に伝えて終われたらいいと思う。「後悔ばっかりだったよ」と言い残していなくなることもまた、残った人に対してしこりを残してしまうだけかもしれないが。

 

死をテーマにしているから、何か思い悩んでいるのかと思われるかもしれないが、そんなことはない。なぜなら私はまだ死ねないのだ。どうせ美談にされるなら「自分もそう思う」といえる形に持って行けるまでは、死ねない。そして、死後の私にむやみやたらに触れられる機会をなるべく減らすために、SNSの管理についてもちゃんと整理するまでも死ねない。今から終活をしている気分である。就活も経験せずに終活を考えるなんて、なんだか不思議なものだ。もっとも、こういう人間に限って、図太く長生きするのかもしれない。

 

 

死人に口はない。

だから死ぬ前に、言いたいことは言っておかなくてはいけないのかもしれない。

人様に勝手に代弁される前に。