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それでも聞いてほしい話とか、諸々の雑記

私の右は、あなたの左

「他人の手を借りなければ、生活していくことができない」

とてもネガティブな内容に聞こえるこの言葉だが、私にとっては、そうでもない。介助を受けることは、私にとって、生まれてからずっと変わらず行われてきた事である。それを今更嘆いても、特別な事だとも思っていない。

呼吸や体内をめぐる血液が止まってしまったら、生きることができなくなる。私にとって、「介助を受ける」ということは、呼吸や血液の循環と同じような扱いなのかもしれない。(以前の記事では、スーパーで野菜を買うことにも例えていた)

息をするのにいちいち意識をするだろうか。今吸おう、どうしてこのタイミングで息を吐いてしまうのだろう。などと考えながら呼吸をする人はいないと思う。大事ではあるけれど、常日頃からそこまで意識はしていない。介助を受けるということは、それらと似たような感覚なのではないだろうか。

 

似た感覚だとはいえ、呼吸や血液の循環のように、自動的に滞ることなく介助を受けられることはまずあり得ない。他人の手は、私の意のままには動かすことはできないから。

私がトイレに行きたいなと思っただけでは、トイレには行けない。介助者に、その意思を伝えてはじめて私の身体は動き出す。

熟練した介助者であれば、「トイレに行きたい」と一言言っただけで、私の体を抱え所定の位置へ運び、服を下げ用をたすのにちょうど良い姿勢に、私を導いてもらうことも可能かもしれない。

それでも、二十数年介助を受けてきて、熟練した介助者とも関わってきた事もあるが、介助を受ける際に私が相手に何も伝えないまま、スムーズにお互いが心地よく、何かをしてもらえた事は一度もない。

それは、介助者たちの力量不足のせいではない。また、その事を責めているつもりも一切ない。

私の痛みや心地良さは、私にしかわからない。

下着がよれて居心地が悪い事も、腕の位置が悪いせいで手の動きがうまくいかない事も、私が伝えなくては、介助者には伝わらないのだ。どんなに介助者が気を使って、細部まで確認してくれても、私の感覚全てを察することは不可能だ。彼らがエスパーではない限り、そんなこと分かるわけがない。当たり前だ。私も彼らの痛みや気持ちまではわからない。

 

私は、自分の手の代わりに介助者の手を操っている。

他人と私の身体の神経は繋がらないから、代わりに言葉を使って。どんなに頑張ってもまだ、意のままには動かせないけれど。

そうして私は、私の生活を成り立たせている。確かに人に"やってもらって"いるのだが、それらはあくまで私の意志でなされているはずだ。

 

介助の指示(偉そうな表現かもしれないが)をするときに、よく使われる言葉は【上下左右】である。

何かを上に。もう少し右に。行き過ぎた。少し下…

という具合に、思う場所に何かを導く場面はよくある。

その中で、ときどき左右が通じない事があるのだ。私が右手と言っているのに、介助者は私の左手に触れる。なぜだか想像がつくだろうか。

 

介助を受けるとき、介助者は私の向かい側に立っている事が多い。その時、私が言う右は、その人にとっては左になる。だから、右と言われたら反射的に右側(私にとっての左)へ手を伸ばしてしまうのだろう。

私はミスを責めたいのではない。そっちじゃないよ。で解決することだから、特に気に留めない。それに上手く伝わらない時には、「あなたからみて左」と言ったり、壁や窓などの分かりやすいものを指して「壁の方」などと言ったりすればいい話だ。

 

介助は人と人の関わりで成り立つ。私はできるなら、お互い心地よく関わりたいと思う。どちらか一方が辛かったり不快な思いをしないように。だからなるべく丁寧な態度で、分かりやすく伝えようと心がけている。なにか負担になることがあれば、どうすればそれを軽減できるか考えたいと思う。それは、人に”やってもらって”いるからではない。私が気持ちよく生活していきたいからだ。

 

 

私は介助者に”ノーミスの完璧さ”は求めていない。誰だって間違うことはある。私もよくメガネをかけているのに「メガネをかけてください」と頼むことがある。3D上映の映画を観るわけでもないのに。

向かい合っていれば、左右の認識が違うのは当然のことだ。

介助者に何かを求めるとするなら、立ち位置や立場で物事の見え方が違うことを知っていてほしいと思う。

私の生活に介入しているのだから「私の右は、あなた”も”右」だと思われては困る。言いなりになれというのではない。お互い心地よくいるため、少しこちらに歩み寄ってほしい。

 

日常の全てを人の手で行われる感覚を、はたしてこのような障害のない人々は理解できるのだろうか。きっと難しいのだろう。

私には、ペットボトルの蓋を開ける感覚も、階段を駆け上がる感覚も理解できない。

それでも、興味をもつことや、知りたいと思うことは決して悪いことではないはずだろう。