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それでも聞いてほしい話とか、諸々の雑記

重いものは持たない

私と同じ病気の就学前のお子さんがいるお母様から、とある方に相談があったそうだ。

相談内容は

【子供の病気が進行していく中で、今後どのような支援が必要になるのか。また、どのようなことに気をつければよいのか】

というようなものだったと思う。

似たような相談を 全国からいくつも受けているその人から「その病気のプロとして、自分だったらこの相談にどう答える?」と聞かれた。

病気にプロもアマチュアもあったもんじゃないし、分野はあれど支援についてはその人のほうが遥かに精通している専門家である。だから自分が答えるのはお門違いだ。と思いながらも、確かに20数年様々なことを経験し、支援を受けてきた身として何か伝えられることもあるかもしれないと、自分なりに考えたことを書き残そうと思う。

 

どうせなら、私(とその親)が経験した苦労や悲しみを味わわず、健やかで幸せに過ごしてほしい。という経験者からのただのお節介というやつだ。人にお節介を焼くようになるなど、私も随分と出世したものだ。

 

 

その相談に対する答えとして、成長していく中で、生活や医療などどんなことが予想され、具体的にどんな支援が必要になるかという詳細は、それこそ医師・理学療法士作業療法士などの専門家から話を聞く方がいいだろう。だから私は、そういった方向ではなく「20年前の自分と母親に会ったら伝えたいこと」という観点で考えてみた。

残念ながら、元気だよとか、産んでくれてありがとうなどという、ありきたりなお話にはならない。当時から持っていられたら、少しは楽に生きられたであろう『考え方』についてのお話になる。

 

私が伝えたいのは、

『他人にどんどん迷惑をかけてください』

ということだ。

 

この病気は、体の筋力が衰え徐々に動かなくなるものだ。私は生まれてから一度も歩いたことがない。今ではほとんど手足は動かず、僅かな指の動きで、マウスと車椅子の操作をするジョイスティックを動かしている。

逆に言うと、それ以外は自分の力では何もできないのだ。だから、食事や着替えや排泄や車椅子の乗り降りなど、私の日々の生活は全て、他人の手を借りて成立している。

 

当たり前だが、そのお子さんは少しずつ成長する。成長と共に、病気も少しずつ進行していくだろう。それは、特に嘆くことでもない。適切な支援や必要な医療的ケアを受けることができれば、そこまで辛く苦しいものにならないだろうと私は感じている。

そうはいっても、病気の進行によって起こることとして一つ断言できることがある。それは、必要な介助や支援は確実に増えていく。ということだ。

お子さんが小さなうちは、介助といっても一般的な子育てと大して差のない程度かもしれない。多少大変でも、家族でなんとかできることもある。無理のない範囲でやっていけるなら、何も気にすることはないと思う。

 

この病気は、重いものだ。辛く苦しいものではないと言ったが、重いものであるのは間違いない。医学やテクノロジーの進歩によって、昔よりも長生きできるようになっているらしい。生まれた頃は、20歳まで生きられないと言われていた私も、いつの間にかとうにその年を超えている。「きっと今、人生で一番体調がいい」といえるほど健康な生活を送っている。このままだと天寿を全うすることさえできるかもというほどだ。

だからといって、病気が治ったわけではない。今もずっとここにある。進行とともにその重さは増し、人生で一番体調がいい今は、同時に人生で一番病気が重い今でもある。

 

きつい言い方かもしれないが、そんな風に少しずつ重みを増すこの病気は、例え親であったとしても、たった二人(と本人)で背負いきれるほど軽いものではない。

この病気を深刻に捉えているでもなく、その子の親が無力だとも思わない。それでも、自分達だけで背負うにはあまりにも重い。無理をすればきっと、その重さに潰されてしまうだろう。それはとても悲しいことだ。

 

ではどうすればいいのかというと、答えは簡単だ。

自分達だけで背負おうとしなければいい。自分で持つのは不可能だと早々に諦めてしまうのだ。諦めて、他人に助けを求める。専門家(ほとんどいないというのが現状だが…)、経験者、友人、知人、隣に住む住人、道行く人…。誰だって構わない。どんどん他人に"迷惑"をかけるべきなのだ。

 

私は幼い頃からよく「人に迷惑をかけるんじゃないよ」と、耳がタコになるだけでは飽き足らず、自分という存在自体が"迷惑そのもの"なのではないか?と錯覚するほど、周りから言い聞かされてきた。

自分にできない何かを他人に頼むことは、迷惑をかけることなのだろうか。そうだとすると、私の生活を成り立たせるための介助は、全て他人に迷惑をかけることに当てはまるだろう。言ってしまえば、生きてることが”迷惑”ということにもなる。

少々被害妄想がすぎるが、病気を否定的に捉えるとそう思い込むことだってありえるのだ。

そんな風に考えていたら、他人に何かを頼むことなんて絶対にできない。

「他人に迷惑をかけるくらいなら、私がなんとかする。私が頑張るしかない。母親なんだから、この子には私しかいないから」

こんなことを思っていたかは知らないが、似たような事情で実際に押しつぶされた人を、私は知っている。

 

 

人によってその基準は異なるから、他人に何かを頼んでも、迷惑だと断られることもあるかもしれない。それでも、手を貸し一緒に悩んでくれる人もまた、どこかにいるはずだ。

 

私は自分に必要で他人に頼まなくてはできない何かを、人に迷惑をかけることだと思いたくない。その中には、私の生活の介助や支援も入っている。

スーパーで野菜を買うとき、農家の人に対して「野菜を育てるという迷惑をかけて、申し訳ない」と思いながら買い物をするだろうか。

私はスーパーで野菜を買うのと同じような感覚で、介助や支援を受けていけたらと思う。なぜならそれは、野菜と同じく私にとって当たり前に必要なことだから。もちろん、介助者や支援者、協力者に対しての感謝は忘れない。

 

長くなってしまったが、これから必要になる介助や支援を、迷惑などとネガティブにとらえずに、どんどん他人を巻き込んで、手を借り、自分達が楽に暮らしていける方法を模索していったらいいのではないかと思う。自分たちだけで抱え込もうとしなくていい。

そもそも持てるものでもないのだから。