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それでも聞いてほしい話とか、諸々の雑記

考えるということ

私はものを考えることが好きだ。

 

幼い子供が何に対しても「なんで?」「どうして?」と、親や周りの大人たちに聞いてまわる風景は、想像に容易い。かくいう私もその一人だった。

小さな頃は、目に見えるすべてのものが不思議で、なぜそうあるのか知りたくて仕方がなかった。

今のように、インターネットですぐ調べることも、図書館に行くことや有識者に聞くこともできなかったあの頃は、周りにいる大人たちにその疑問をぶつけていた。

「空はなぜ青いの」から「なんで勉強をしなければいけないの」まで。ありとあらゆる疑問に対して、幼い子供が理解できるレベルまで嚙み砕きながら答えることは、難しいことだろう。そもそもそのことについて、一度も考えたことがなかったかもしれない。そういった場合は、どう対応するのが正しいのだろう。

私の場合は大抵、はぐらかされるか明らかに違うであろう適当な答えを受け取るかのどちらかだったのだが。

 

その対応が正解かどうかはさておき、人は大人になるにつれ、何に対しても疑問を持つという気持ちは薄れていくように思う。

勉強する理由も、働く理由も、食べて寝る理由も考えずに、生活は当たり前に進むようになる。

それもそうだ。一つの物事に対していちいち「なぜだ?」などと考えていたら、一日が何時間あっても足りない。生活が成り立たなくなってしまう。

 

ある時知人に、「そんなことまで考えていたら、大変そうだね」と言われたことがある。それは被害妄想のように起こりもしないことばかり考えていた時に言われた言葉だった。

確かに考えることは、エネルギーを使う。それでも私は、その考えることを(たとえ被害妄想だったとしても)大変だと思ったことはなかった。妄想族なのかもしれない。

 

大変なことだとしても私は、考えるということは大事なことなのではないかと思う。

勉強する理由を、働く理由を、食べて寝る理由を。

なにも考えないまま生きていくのは、楽ではあるが、なんだかもったいない気がする。自動化した人生に乗っかり生きていったら、気づいたら死んでました。ということになってしまうように思えて。それは少し寂しいことではないだろうか。

 

きっと全く何も考えず生きている人なんて、存在しない。

それでももう少し、なぜ勉強するとか、なぜ空は青いとか、自分の周りにある当たり前なことをもう一度考えてみてもいいのにと思う。

 

童心に帰れば、見える世界も変わるかもしれない。

だから私は、考えることをやめられない。

 

 

いつか世界が、変わるような気がして。